ダーク ピアニスト
〜練習曲9 人形 zweiツヴァイ

Part 1 / 2


 バシッ!

 鞭が宙を唸り、その身を打ち付けられても、ギルフォートは顔色一つ変えずにじっとボスの顔を見つめた。避けなかったせいで傷付いた右手の甲から薄っすらと血が滲む。
「どういうつもりだ?」
フィレンツェの別荘でジェラードが詰問する。
「言った筈だぞ。『レッドウルフ』からは手を引けと……」
手の中で鞭を撓め、弄びながらジェラードが言った。
「あちらから仕掛けて来たんです。連中は、ルビーを標的にしています」
ギルフォートの言葉にジェラードは頷きながらも言った。
「だが、命令違反だ」
「わかっています」

そこは、美しい調度品で飾られた広くゆったりとした部屋だった。開けた一面のガラスの向こうには緑の庭と、その向こうに設えられた水のモニュメントが青空に煌いている。その向こうで楽しそうにじゃれ合っているエスタレーゼとルビーの姿が見えた。

『レッドウルフ』のロンドンでの拠点、「ビューティースワン」が爆発炎上し、テムズ川に沈められた事件の後、すぐにジェラードは二人をロンドンから引き上げるように命令した。そして、このフィレンツェで合流したのだった。この一連の事件は、闇の世界に少なからずの動揺を与えた。たった二人のスナイパーにあの『レッドウルフ』が敗北したのだ。いくらそれが、組織のほんの一部でしかないとしても、彼らにとっては驚異だった。

『グルド』は、この件に関して一切の関与を否定した。これは、あくまで個人的なトラブルに過ぎなかったのだと……。しかし、やられた側の『レッドウルフ』としては、このまま黙って済ませる訳には行かないだろう。このごたごたを修める為に、『グルド』は莫大な違約金を払う事で一応の合意を取り付けたものの、相手が相手だけに、何か仕掛けて来るかもしれない。ただ、その場合にも、それらは、全て個人の問題であり、互いの組織が関与する事はないとした文書を取りかわした。

「ルビーといい、ギルフォート、おまえといい、このところ、おまえ達の行動は目に余る。おまえは降格だ。外出も禁止する。いいな?」
「はい」
そう言ってジェラードは背を向け、歩き始めた。と、ふとドアの前で振り向くと言った。
「向上心があるのはいい。だが、あまり猜疑心が強過ぎるのも問題だぞ。私は、人から探りを入れられるのは好きではないのでな」
ジェラードのブルーともグレイともつかない瞳が鋭く光る。
「……」
「娘を監視役として置いて行く。妙な気を起こすなよ」
バタンとドアが閉まる。ギルフォートはフンと鼻を鳴らすとゆっくりと窓際に歩んだ。噴水の向こうで相変わらず二人は笑いながら話している。振り向いたエスタレーゼの瞳は、よく晴れたこの空のように澄んだ水色をしていた。

「あ! ギルだ! ギルもおいでよ!虹だよ! 噴水に虹が出てるの。素敵だよ」
ルビーが彼の姿を見つけてうれしそうに呼んだ。
「ここからでも見える」
彼はそう言うと部屋の奥へ引っ込んだ。
「相変わらず危機感のない奴だ」
彼は上着の内側に忍ばせた銃の感触をそっと確認した。壁にはラファエロの絵が掛けられている。

(おれと、その人形であるルビーは連中から狙われている。いくら制約を取り交わそうと、それで奴らが納得するとは思えない。連中は二度もおれやルビーに煮え湯を飲まされているのだから……。世界中何処にでも奴らの拠点はある。例え篭っていたところで時間の問題だ。いつかはまた、ぶつかり合わなければならない。そんな事はジェラードも承知している筈。本意が読めない。ジェラードと『レッドウルフ』の関係が……。)
彼は密約の内容が知りたかった。だから、このところずっと時間を掛けて情報を探ろうとしていたのだ。
(それにしてもわからない。危険を承知でエスタレーゼを置いて行く理由が……)


 屋敷には六人の使用人がいた。元々この別荘を管理していた男と料理人が一人。残りの四人は監視兼護衛だ。他人と関わる事を好まないギルフォートは、ロンドンでは使用人を置かず、自由な行動が許されていた。が、今回ばかりはジェラードが許可しなかったのだ。おかげで家事の一切をする必要はなく、自由に使える時間は増えたものの、彼はそのほとんどの時間を筋力トレーニングと情報収集に費やしてなお、物足りなさを感じていた。

ルビーはといえば、筋力トレーニングとピアノと、後は気ままに広い庭を散歩しながら、花や虫に話しかけたり、おもちゃや人形でごっこ遊びをしたり、エスタレーゼとテレビやDVDを観たりとまるで退屈とは縁はなさそうだった。人懐こいルビーは、すぐに使用人達とも仲良くなった。

「ギルは退屈そうね」
彼がトレーニングを終えて休憩時間に窓の外を眺めているとエスタレーゼが来て言った。
「いえ、そうでもありませんよ。やる事ならいくらでもありますから……」
と言う彼にエスタレーゼは微笑する。
「そう? ルビーが言っていたわ。夜の外出が出来なくて可哀想って……。プレイボーイさんには、それが一番の罰かしら?」
「その分読書の時間が増えましたよ」
と言って苦笑する。
「あなたはどんな本を読むの?」
「恋愛物以外なら何でも……」
「恋愛物は苦手?」
「自分には縁がないもので……」
「嘘つきな人ね。恋なんてたくさんして来たんでしょうに……」
「偽りの恋ならね……」
「それじゃあ、本当の恋は?」
「さあ……」
と言って視線を逸らす。

「ルビーは何処に行ったんです?」
「森を散歩して来るって……」
広大な敷地の端にはこんもりと緑の茂った小さな森があり、彼はそこがお気に入りだった。


 ルビーはその森の小道を歌いながら歩いていた。彼が通ると小さな生き物が木の葉や根っこの間から顔を覗かせる。彼はニコニコして愛想を振り撒く。それから、立ち止まって指笛を吹く。木漏れ日の間からキラキラと光が降り注いであちこちから鳥の声が高くなった。そして、彼がもう一度合図を送るとたちまち鳥達が彼の側に舞い降りて来る。
「こんにちは。今日はどんなお話を聞かせてくれる?」
その声に反応したように鳥達は一斉に歌い出す。それは、まるで野鳥のコーラスさながらに……。彼の心が奏でるピアノに合わせるように、高い音、低い音、澄んだソロに魅惑的なトリル……。彼はしばし、幻想の森に捕らわれた。

そして気づくと、彼は本当に幻想の世界に紛れ込んでしまったのではないかしら? と錯覚を覚えた。木漏れ日の中に煌く黄金の髪を持つ少年が立っていたのだ。少年は青い澄んだ瞳で微笑んでいた。

「君は誰? 天使?」
夢見るような瞳でルビーが訊いた。
「違うよ。君と同じお人形……」
「お人形?」
ルビーがじっとその目を見つめる。少年は、ルビーより頭一つ小さかった。少年はまだ、やっと10才になるかどうかくらいの年齢に違いなかった。

「素敵! 黒くて艶々していてすごくきれい! まるで黒曜石みたいだ……」
彼は小さな手でルビーの髪を梳いた。それから、愛らしい微笑みを浮かべる。
「ねえ、ぼくのものになってよ」
少年が囁く。
「君のものに……?」
「そう。ぼくは、フェリックス。フェルって呼んでいいよ」
「僕はルビー ラズレイン」
「知ってるよ。あのギルフォート グレイスのお人形でしょう?」
「ギルの……」
しかし、ルビーは首を横に振って否定した。
「僕は誰のものでもないよ。だから、君のものにはなれない」
「どうして? とても大切にするよ。だから、ねえ、ぼくのものになってよ」
と手首を掴み、顔を寄せる。掴まれた手首が熱かった。とても子供の力とは思えないくらいに……。と、突然、鋭い痛みを感じてルビーはそれを振り解こうとした。が、少年は放さない。潤んだ瞳で顔を寄せる。

「やめろ!」
思わず危険を感じて彼はフェルを突き飛ばした。
「おまえは……!」
「どうしたの? 何をそんなに怒ってるの? ぼくはキスしようとしただけなのに……」
「キスだって? 違う! これは……これ……」
意識が朦朧とした。
「薬を……」
少年の指にはめられたおもちゃの指輪には針が仕込まれていたのだ。

「大丈夫だよ。これは毒じゃない。ぼくがちゃんとパパに頼んだんだ。おまえを上手く捕まえたらぼくのものにしていいって。だって、おまえはピアノの天才なのでしょう? 欲しいよ。ねえ、ぼくのものになってよ。そうして、ずっとぼくの為だけにピアノを弾いて……。パパは、おまえを殺すって言ってたけど、ぼくはいやだよ。だって、こんなにきれいなんだもの。おまえ、大人なのにとっても可愛い顔してる。本当にお人形みたいに……。だから、ぼくのコレクションに加えてあげるんだ。ねえ、いいでしょう?」

薄れ行く意識の中で、フェルは一体何を言っているのだろう? とルビーは思った。ポケットの中のチェーンリングが手に当たってジャラリと鳴った。その連なった輪の数を無意識に数える。

「ピアノを……?」
「そう。ピアノだよ。ぼくのためだけに弾くんだ」
「……い…やだ……!」
(僕は、いつだって自由な意思で弾くんだ……)
そこで意識が途切れ、握ったチェーンリングが一つ、木の根に落ちた。赤と銀で出来たそれは、小さな花のようにそこに咲いた。
(ギル……)

「手に入れた。ぼくの……ぼくだけのお人形を……」
「しかし」
と背後から現れた人物が言った。
「おまえに奴が制御出来るかな?」
金髪のその男は見下すような視線を向けて言った。
「薬を使えばいいよ」
「そんな事をしたら、ピアノが弾けなくなってしまうかもしれないよ」
「壊れたら捨てちゃえばいい。けど、それまではぼくのおもちゃにするんだからね」
フェルはけらけらとうれしそうに笑った。あまりに上手く行ったので彼はご機嫌だった。男がルビーを運び、フェルは開き始めたばかりの花の蕾を、乱暴に踏み潰して車に向かった。そんな彼らの振る舞いを木の根の間からリスやウサギ達が見ていた。鳥は囀る事を止め、高い木の枝の上で小さな身体を寄せ合っている。

――みすぼらしい姿の鳥がいました。けれど、神様はその鳥に一番美しい声をお与えになったのです

絵本を広げて読んでいるルビーの姿がふと思い浮かんでギルフォートはハッと顔を上げた。記憶の中でルビーが持っていた本には鳥の絵などまるでない。彼は勝手に絵本のページを開いては読んでいるつもりになっているだけのごっこ遊びをしているのだ。それは、今まで母親やエスタレーゼ達から実際に呼んでもらったお話の一部だったり、アニメやラジオで聞いた物語を真似てみたり、自分で作った幻想物語をミックスしたりと様々だ。が、ルビーは、このごっこ遊びが気に入っていた。

――それって人間も同じなのかなあ?

記憶の中のルビーが不意にパタンと絵本を閉じて言った。

――僕の身体、どんどん傷が増えて醜くなってるんだ。でも、その分きっとピアノが上手に弾けるようになるかもしれないな。ねえ、もし、そうだとしたら、もっと傷ついた方がいいのかな? もっと、もっと深く傷ついたら……僕は、きっと音楽の天使になれるんだ

「違う……!」
本を閉じてギルフォートは立ち上がった。

――これ以上、自分を傷つけるのはやめろ

開いたままの窓に歩み寄ると夕闇の風は冷たかった。
「ルビー……どうしておまえは……」
と、その時、エスタレーゼが入って来た。しかし、いつも彼女の後にくっついている筈のルビーがいない。所在を訊くと彼女も知らないと言う。
「家の中の何処にもいないの。きっと午後のお茶の後で森へ出かけたきりなんだわ」
「森?」
気のせいか、いつもより鳥が騒がしく鳴いているように思えた。

「ホントにどうしたのかしら?」
エスタレーゼも落ち着かない様子だ。
「奴に付いて行ったのは誰だ?」
ギルが訊いた。
「ヤンよ」
ヤンは格闘家崩れの兵でいざとなれば銃も使える手練だった。
「奴が付いているなら……」
と言い掛けて、ギルは妙な胸騒ぎを感じて窓の外を見た。と、その時。
「ヤンと連絡が取れません。それに、発信機の電波も途切れました」
ハリーが入って来て言った。

「何?」
ここは私邸で森は広大な庭の一部にある。その境には高い防護壁と防犯カメラ等も備えて侵入者を監視していた。もし、ルビーがその気になってそこを抜け出そうとしたならば、それは可能だろう。しかし、状況はそう甘くはないようだ。創作に出たビルギルとハリーが森の近くでヤンの死体を発見したのだ。それから、花や草地を踏み荒らしたような跡……。そして、木の根の側でそれを見つけた。それは、小さな三つ繋がれたチェーンリングだった。ルビーがままごとの具材として使っていた赤と銀色の小さなチェーンだ。そして、それには意味があった。銀の輪を挟むように赤い輪が二つ……。それは緊急事態を知らせるサインだった。
「SOS……」
彼が助けを求めている。そんな事は初めてだった。
「一体何が……」
ギルはそのチェーンを握り締めると暗くなり掛けている空を見た。


 「目が覚めた?」
金髪の天使がうれしそうに訊いた。彼は椅子に縛られたまま顔を上げて部屋の様子を見た。カラフルな色彩の子供部屋らしい明るい色のカーペットの上には迷彩色の戦車や飛行機、銃を担いだ兵隊の人形、それに、幾つかのショベルカーやブルドーザー等の働く車、プラスチック弾等のおもちゃが転がっていた。
「目覚めはベッドの上がよかったな」
ルビーは言って、手足や身体に巻きつけられているそれが、どれ程の強度の物かをさり気なく測った。
「ベッドだって? お人形にベッドはいらないでしょう?」
「そうかな? 僕はちゃんとお人形にもベッドを用意してあげるよ」
「いらないよ。何時敵が攻めて来るかもしれないんだよ。のんびりベッドで寝ている暇なんかないね。それ! 戦車隊の攻撃だ!」
フェルがリモコンを捜査すると、足元のそれらが一斉に砲口をルビーに向けてプラスチック弾を発射した。が、それらはおもちゃだから当たっても差程痛くはなかった。しかし、次にはリモコンを持ち替えてフェルが笑う。

「ぼくねえ、ずっと軍に憧れてるんだ。早く18になってぼくも軍隊に入りたいよ。ねえ、軍は随分楽しい所なんでしょう?」
「知らないよ。僕は軍になんか入った事ないもの」
「それじゃ、奉仕をしたの? 最低だね。男なら絶対軍に行くべきだ。それとも、まさか兵役検査で落ちたとか? アハハ。やっぱりお人形ちゃんは普通じゃなかったんだ。壊れた人形なんて社会のクズだね」
とケラケラ笑っているフェルにルビーが冷ややかに言った。
「そう。僕は確かに壊れてるかもしれないけど、君も多分兵役検査には通らないだろうね」
「どういう意味だよ?」
フェルが笑うのをやめて訊いた。
「だって、君も壊れてるもの」
「黙れ!」
フェルは手にしたリモコンでルビーを殴りつけた。執拗に何度も殴り続けながら叫ぶ。
「ここではぼくがおまえの主人なんだからな! 反抗は許さない!」
「ご主人だって? おもちゃの兵隊の隊長さんかい?」
「バカにするな!」
フェルはリモコンを捜査すると大きな軍用ヘリコプターを飛ばした。それが器用に部屋の中を旋回し、何度もルビーに接近し、回転するプロペラが彼の寸前をかすめて通る。接触したらかなり危険だ。しかも先程の戦車よりも威力のある機銃を撃って来た。それらがバラバラと胸や腕に当たり、彼に苦痛を与えた。そして、その中の一発が頬をかすめ、スーッと赤く染まる。

それを見てフェルは喜んだが、彼はそれ以上当たらないようにシールドを張った。そうこうしているうちに弾が切れ、フェルはチッと舌打ちすると今度は機体をルビーにぶつけようと狙った。それを何とかシールドでかわしながら、ルビーが訊いた。
「こんな事をして何が楽しいの?」
「楽しいさ。おまえの苦しむ顔が見える。ぼくはね、軍に入ったらいっぱい敵を殺すんだ」
「敵? 敵って誰なの?」
「敵は敵さ。決まってるだろう。世の中にとって無用な人間の全てさ」
「無用? それって悪い人の間違いじゃない?」
「無用な人間は悪い奴だよ。決まってるじゃないか。おまえだって悪い奴は殺すんだろう?」
「ああ。悪い子には罰を与えなきゃ……」
と言ってルビーは眼前に迫っていたヘリコプターを念動力で叩き落すと、縛られていた全ての拘束を解いて立ち上がった。

「貴様っ……!」
フェルがカッと頬を染める。足元にはバラバラになったヘリコプターの残骸が散っている。
「僕ねえ、幼稚園と教会で奉仕してたんだ。そして、その前には精神病院にいた。だから、君みたいな子の事、よく知ってるんだ。僕が見て来た中でも君はかなり重症だね。すっかり心が壊れちゃってる。きっと君のこと愛してくれる人がいなかったんだね。可哀想に……。僕も可哀想な子供だったけど、君はもっと可哀想だね……そうでしょう?」
「うるさいっ! 黙れっ!」
フェルがそこら中の物を掴んで投げつける。けれど、それらはみんな、ルビーの前では功を成さない。ルビーは微笑し、それから、少しだけ悲しそうに言った。
「可愛い顔してるのにね……」
それは、今まで彼自身が皆から言われて来た言葉だ。

――可哀想
――可哀想に……
――何の為に生まれて来たのかしら?

暗に秘められた否定的な言葉……。いつだってそうだった。どんなにがんばっても、顔がよくても、ピアノの才能があっても消せない重り……。世間の目は、いつも彼を否定し、抹殺しようとした。せっかく掴んだやさしい感情を踏み砕いて、彼の味方だった人はみんな先に逝ってしまった。

「どうしてだろう? やさしかった人はみんな、この手をすり抜けて逝ってしまった……。二度と還らない永遠の国へ……。どうして、人は繰り返すんだろう? どうして負の力の方が何倍も強いのだろう。いつも勝てないんだ。今、僕は君を見下すよ。いつもみんなが僕にそうしていたように……今度は僕が君を見下してやるんだ。さあ、おいで。僕が愛してあげる。可愛い僕のお人形……」

ルビーは少年の手首を掴んで引き寄せた。
「畜生っ! 放せ!」
噛み付きそうな勢いで少年は怒鳴った。けれど、ルビーは微笑んで少年の額にそっとキスする。
「バカ! よせ! やめろ!」
暴れる少年をじっと見つめる。瞳の奥に煌く魔物……。フェルは魅入られた子猫のように大人しくなった。

「いいよ。わかってる。君はいつも独りだったんだ。でも、これからは違う。僕がいる。ねえ、フェリックス坊や。幸運な子。僕のお人形にならないかい? そしたら、とても大切にするよ。ちゃんとベッドにも寝かせてあげる。それから、うんときれいなお洋服とステキな鏡も買ってあげよう。だから、ねえ、僕といっしょに……」
ルビーの甘い囁きに少年はうっとりと聞き入った。
「そしたら、ピアノを聴かせてくれる?」
「ああ。もちろんさ。君にはモーツァルトが似合いそうだね。さあ、行こう。僕達の世界へ……」

フェルが頷き掛けたその時、鋭く光る銀色のメスが二人の間を飛んで行った。
「こんな事だろうと思っていたよ。フェル」
ドアの前に白衣の男が立っていた。
「パパ……!」
フェルが怯えたように言った。

「消毒薬の匂い……」
ルビーは少年の手を放し、後ずさるように呟く。
「あなたは医者なの?」
「そう。私は医者だ。ここは病院だからね」
「病院……?」
ルビーが怯えたように抑揚のない声で復唱する。瞳の奥で強気に輝いていた魔性の獣は震える生け簀に帰って行った……。
「そう。ここは精神病院さ。聞こえるだろう? 隔てられた者達の狂気の声が……」
閉ざされた窓は厚いガラスに細い金属が埋め込まれていた。部屋の中は明るかったが、壁もドアもちぐはぐなくらいカラフルだった。耳を澄ませば、微かに聞こえて来る風の音……。それに時折混じる甲高い声……鳥のような獣のようなおぞましいそれは、狂気に身を任せた人間のものだった。

「でも、ここは……」
それでも、ルビーは足元に転がるおもちゃやカーペットの模様にフェルの純粋な瞳を重ねた。
「ああ。フェルは私の息子だからね。特別なんだ」
男が言った。
「息子?」
フェルは父親の白衣のポケットをまさぐって何かを強請るような目を向けた。
「まだだ」
男は強く制した。が、反対のポケットを指差して言った。
「おまえが上手に仕事が出来たらやるよ」
「ほんと?」
男が頷く。と、少年は再び邪気を吐き出した。

「何をそんなに驚いているんだ? おまえだっていたんだろう? 鎖に繋がれた最低の牢屋に……。そして、その鎖は今も解けちゃいない。おまえの手足に絡み付いているんだ。その先端を握っているのは誰だ? やっぱりあの男。ギルフォート グレイスかい? おまえは今も操られている。永遠に切れない鎖を付けてピエロのように踊り続けるんだ」
そう言うと少年は笑い転げた。
「フェルだってそうだろう? 今もこれからもずっと父親に支配されて……君の自由なんて何処にもないね」
「ハハハ。負け惜しみかい? ぼくはいいんだ。だって、ビクトールはぼくの父親だもの。けど、おまえにとってのギルフォート グレイスはただの他人さ。奴は平気でおまえの事を裏切るだろうよ」
「ギルが……?」
「それだけじゃない。ジェラードだって、本当はおまえの事を疎ましく思っているんだ。誰もおまえの事なんて愛してないのさ」
フェルはキンキンとした声で喚いた。ルビーには、それが何処か遠くの異次元から聞こえるような気がした。

(愛されたいんだ。僕だって……君だって……本当は、みんな誰かに愛されたいと思ってるんだ。本当は、あのギルだって……ジェラードだって……みんな……)

「君はそうじゃないの?」
「うるさいっ! ぼくは、これがあればいいんだ」
と父親のポケットから小さな注射器を出した。
「それに、ぼくはおまえと違ってもうとっくに愛されているんだし……」
フェルが注射器を振り回してケタケタと笑う。と、それを見て、ルビーはじりじりと後退して行った。
「それは……」
ルビーの脳裏に浮かんだ光景。それは、彼がまだ、『グルド』に入って数年後の事だった。若い者達のパーティーで彼らが注射器を使ったり、袋から何かを吸引したりして盛大に盛り上がっていた。彼らは楽しそうに笑ったり、歌ったり、踊ったりしていた。ルビーはそれを見て、自分もその仲間になりたいと思って近づいたのだが、それをエスタレーゼに止められた。

――ダメよ、ルビー! 彼らは薬をやってるのよ
――薬? ぼく、お薬好きだよ。風邪を引くといつもイチゴ味の甘いお薬もらえるの
――そのお薬とは違うの。彼らが使っているのは麻薬
――麻薬?
――それにシンナー。どっちも毒なの。絶対に手を出してはダメよ
――どうして?
――ピアノが弾けなくなっちゃうわよ
――あんなに楽しそうなのに……

ハイテンションの彼らを見て、ほんの少しうらやましく思ったが、ピアノが弾けなくなるのはいやだったので麻薬には手を出さないと誓った。それから、何度も若い仲間達が誘惑しようと近づいて来たが、ルビーは固い意思で断り続けて来たのだ。
「何の薬?」
ルビーが訊いた。
「これをやると気持ちがよくなるのさ。心も身体も軽くなって何だってやれる気にさせてくれる魔法の薬さ」
「麻薬なの?」
「まあな」
とフェルは曖昧に言って、それを自分の腕に当てた。

「ダメだ!」
ルビーがそれを叩き落とす。プラスチックの注射器はカーペットを転がってキャタピラにぶつかって止まった。
「何するんだ!」
フェルが怒鳴った。
「こんな物をしちゃダメなんだ。だって、これは毒なんだよ。エレーゼが言ってたんだ」
「アハハ。バカじゃないの? そんな女の言う事なんか信じて……本当に毒だったら何でこんなにたくさんの人間がそれをやってるんだい? これはいい物なんだ。パパがくれるんだから……おまえも一度やってみろよ。スッキリするぜ」
と言って拾った注射器をルビーに当てようとする。
「やめろ!」
彼は飛び退いて後ろへ下がった。と、いつの間にか回り込んで来ていた男とぶつかる。白衣は彼に恐怖を与えた。

「やめろ! やめろ! やめろ! 誰も僕に近づくな!」
両手を振り回し、後ろに下がりながら彼は叫んだ。それを見て少年がニタリと笑んで言った。
「ははーん。おまえ、医者が、病院が怖いのか?」
「……!」
「そうなんだ」
壁際に追い詰められてルビーは小さな草食動物のような目で少年を見た。少年の目は何かにとりつかれたようにギラついている。
「いやだ……」
外から一際大きな狂気がその場の空気を切り裂いた。そして、木霊する笑い声はどんどん罅割れを広げて行った……。

――何処?

彼は光の中で目を覚ました。高い窓から陽射しが差し込んでいた。けれど、その光は窓にはめられた鉄の棒の数だけ縞模様だ。彼は狭い部屋の中で粗末なベッドに寝かされていた。周りはしみだらけのコンクリート。手足に付けられた頑丈な鎖。手足をほんの少し動かしてもジャラリと耳障りな音がした。身体が重く、手も足も固く拘束されて僅かしか動かない。
「どうして?」
彼はもがいた。小さな身体で必死に抵抗し、助けを求めて泣き叫んだ。
「ここは何処なの? どうして、ぼく、縛られてるの? 痛いよ! 苦しいよ! 放して! 誰かここから出して! ぼくを助けて!」
だが、まだ小さかった彼、ルートビッヒ シュレイダーの叫びは誰にも届かなかった。そして、そこが病院だと知ったのは、彼が叫び疲れてうとうと眠り掛けた時だった。ガチャリと大きな鍵が外されて白衣の男と看護士が入って来たのだ。

「ここは何処なの?」
泣きはらして赤くなった目で訊いた。
「病院だよ」
男が応える。
「病院? なら、どうして閉じ込めるの? どうしてぼくを縛るの?」
「ここは精神病院だからね。君は病気なんだ。」
医者は微笑んで言った。
「病気?」
「そう。心の病気だ」
「違う! ぼくは病気なんかじゃない! ぼくは! ぼくは……!」
そんな少年の主張を聞きもせず、医者は看護士に指示すると、注射器にその液体を注入した。
「いやだ! やめろ! 来るな! この悪魔!」
近づいて来る医者に向かって、彼は手足を震わせて喚いた。
「悪魔か。そうだ。君の心の中にいる悪魔をね、やっつける為に我々がいるんだ。さあ、大人しくして。この注射をすれば大分楽になるからね」

「さあ、じっとして」
顔に似合わないガッチリとした腕の看護師に押さえつけられ、自分の腕に侵入して来る針の異物を阻止する事が出来ずに、彼は涙を流した。

「やめろ……!」
ビクトールに押さえ付けられて彼はもがいた。そして、フェルが持つ注射器の針の先端が異様な輝きを増す。鼓動が高鳴っていた。外の声に呼応して狂気の旋律が脳幹を駆け上がる。けれど、身体が震えているのは恐怖からではない。求めているのだ。血の生贄を――!


 「ごめんなさい」
とエスタレーゼが言った。
「ルビーを森へ行かせたのはわたしなの」
「君のせいじゃないさ」
ギルはテーブルに置いたチェーンリングを見つめて言った。
「約束してたのに、わたしが時間に遅れてしまったから……。あの子、すっかり待ちくたびれて森へ出掛けてしまったの。もし、わたしもいっしょに行っていたら……」
「事態はもっと悪くなっていたさ」
彼は冷静に言った。

「ギル……」
「やっぱり君は早くここを離れた方がいい。狙われているのはおれ達だ。が、このままでは、君も危険に巻き込んでしまう。君に傷が付いたりしたら大変だからね」
「わたしがジェラードの娘だから?」
ギルは頷いて、それから、彼女の目を真っ直ぐ見つめて言った。
「おれがいやなんだ」
「ギル……」
「ジェラードには、おれから連絡を入れる。君はすぐに連中といっしょにここを出てくれ」
「でも、そんな事したら……」
「ジェラードにとっては気に入らないだろうが、そうするのが一番いいんだ。もう、戦いは始まってしまったのだから……。『レッドウルフ』の連中は、どうあってもおれ達への恨みを晴らしたいらしい」

「それじゃ、ルビーは?」
「もしかしたら、もう生きていないかもしれない……」
彼はチェーンリングを掴むとそっとポケットに入れた。
「そんな……!」
「だが、連中はルビーを連れて行った。それは多分、おれをおびき出す為の餌だ」
「それじゃあ、あなたも危険だわ。彼らに護衛してもらった方が……。それとも、お父様に頼んで援軍を……」
けれど、彼は首を横に振った。
「いや。おれ一人の方がいいんだ。その方が自由に動けるし、それに、兵隊を連れて行ったのでは、相手の感情を逆撫でするだけだ。もし、ルビーがまだ生きているとするなら、、助けるチャンスを失くす」
「ギル……」
「どうか、わかって欲しい」
「わたしがいては足手まといになってしまうのね? わかったわ」
「すまない」
「ギル……。きっとルビーを連れて戻って来てね」
「ああ」

 「どうだい? 気分は」
フェルが覗き込んで訊いた。
「ああ。最高で最悪の気分だよ」
と言ってルビーは顔を上げてクククと笑った。
「誰かを殺したい」
そう言うと、彼は立ち上がってフェルと白衣の男を見た。それから、カーペットの上に転がっている兵隊の人形達を――。窓の外からは相変わらず悲鳴とも歓声ともつかぬ声が漏れている。

「そうだ。ゲームをしよう」
とルビーが言った。
「ゲーム? それっておもしろいのか?」
「ああ。君は僕のピアノが聞きたいって言っていただろう? 聞かせてやるよ。僕の最高の演出で……」
そう言ってルビーは笑った。
「演出?」
「そうさ。ねえ、ここにピアノある?」
「下のホールにはあるよ」
と男が言った。
「調律はあまりしていないけれどね」
「結構。上等だ。案内してよ。それに、ここにいる全員をそのホールに集めて欲しいんだ」
「みんなに聞かせるの?」
「観客は多い方が好きなんだ。それに、もうこれ以上耳障りな騒音は立てさせない」
と言うとルビーはさもおかしそうにクスクスと笑った。

「いいだろう。お手並み拝見と行こうか?」
「オーケー。見せてやるよ。だてに『ダーク ピアニスト』なんて言われてる訳じゃない。その代わり、このゲーム、もし僕が買ったら、この人形、僕がもらう。いいね?」
とフェルを見た。
「もし、勝てなかったら?」
「僕はフェルのものだ」
「オーケー。パパ。いいでしょう? ぼく、このお人形が欲しいよ」
とフィリックスも言った。
「いいだろう。それで? ルールは?」
「僕がピアノを弾く。そして、その間に観客全員を始末するってのは? 誰にも気づかれず、悲鳴も上げさせずにね」
と言ってルビーは楽しそうにクククと笑った。
「全員?いいだろう。どうせ、いずれは始末する目的の者ばかりだ。が、数は多いぞ。全部で89人。それに職員や看護士も加えると111人になる」
「いい数字だ。みんな殺っちゃってもいいんだよね?」
「ああ」
「なら、オーケーだ。数なんか関係ない。それくらいの人数なら、たった一曲で充分だ」
「なら、見せてもらおうか? おまえの実力を」